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五十嵐八五郎(いがらしはちごろう)

安政元年(1854)~昭和2年年(1927)
現在の久喜市に生まれ、川本町の五十嵐家の養子となる。当時前橋市で盛んに行われていた栽培に関心を持ち、さらに千葉県などで栽培を学び、明治17年に帰郷した。栽培は水害にあっても被害が少なく、農繁期が稲作と競合しないうえ、現金収入があることから有益な作物として、出身地の久喜市や白岡市に栽培を普及し、埼玉の今日を築いたといわれている。
白岡市への栽培技術の伝授は明治36年に八五郎から伝授された栢間村(現久喜市)の木村嘉平治家から荒井新田の加藤喜助家、明治43年に上野田の小島好太郎家に行われ、以後市内各地に普及した。

井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)

寛文3年(1663)~元文3年(1738)
江戸幕府の普請奉行で紀州流土木技術者。弥惣兵衛為永は8代将軍吉宗の時代に見沼の干拓事業を進め、下中条(現行田市)から利根川の水を誘導する約60キロメートルの見沼代用水路を開削した。開削後、水路付近の笠原沼、栢間沼などの新田開発を行った。柴山伏越も弥惣兵衛為永の手によるものである。弥惣兵衛為永没後の明和4年(1767)に見沼代用水路開削によって、恩恵を受けた人々が、追福の石碑を常福寺に建立した。
井沢弥惣兵衛為永

板石塔婆 (いたいしとうば)

13世紀から16世紀にかけて全国的に造立された石塔。卒塔婆の一種として発生し、一般的に板碑、青石塔婆と呼ばれてい る。市内には完全形のもの欠損、破片を含め189基ある。紀年銘のあるものは約40基で、最も古いものは岡泉丸山共同墓地にある弘安9年(1286)のも のである。
板石塔婆
実ヶ谷内田家所蔵板石塔婆