白岡キーワード百科「お」

更新日:2023年01月31日

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太田新井(おおたあらい)

日勝地区に属し、江戸時代の太田新井村(百間領)で、古くは上新井村と称した。『日勝村誌』によれば、寛永5年(1628)の検地帳には上新井村と記され、正保の郷帳には太田新井と記されている。
地名の由来は「太田の庄で、新しく開発された土地」という意味と考えられる。
明治28年に実ヶ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となる。

太田神社(おおたじんじゃ)

太田新井の鎮守で祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)・天穂日命(あめほひのみこと)。大正2年に鷲神社2社と諏訪神社を合祀し、太田神社と改称した。境内には庚申塔や稲荷社、大黒天が祀られている。

大山村(おおやまむら)

明治22年3月の町村制による大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在した。昭和29年9月の白岡町の誕生にあたり上大崎は、旧菖蒲町に分離合併した。
大山村は、大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものである。
大山地区は三条の台地が東西に走り、低地がこれを囲んでいる。台地は海抜12メートルほどで、低地との差はわずかに1~2メートルである。しかも台地は沖積土に覆われている埋没ロームなので、自然堤防とまちがえやすい。

岡泉(おかいずみ)

日勝地区に属し、『日勝村誌』によれば、村名の由来は、昔(正慶の頃・1332年頃)、野田とこの地の間に沼があり、岡泉と称したといわれている。岡泉新田は江戸時代に開発された。
村の中心部には鎮守の鷲神社、丸山共同墓地、観音堂などがある。
明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となる。

岡泉神楽(おかいずみかぐら)

岡泉鷲神社に伝わる神楽。天保の頃(1830~44)若者の気風の荒廃を心配した村人が春岡村(現さいたま市)から伝授し、神社に奉納したのが始まりと伝えられている。
毎年7月14日(現在は14日に近い日曜日)の天王様には山車の上で、また、同月23日の八雲神社の祭礼には神楽殿で奉納される。市指定無形民俗文化財。

岡泉観音堂(おかいずみかんのんどう)

 岡泉観音堂には庚申塔(こうしんとう)や天満宮などの石造物が建立されている。また、万延元年(1860)建立の「庚申」と刻まれた石碑が約100基奉納された「百庚申」、中島撫山(なかじまぶざん)の書による100種類の書体で「庚申」と書かれた百体庚申碑があり、市指定有形民俗文化財となっている。

石造物が石垣のように並んでいる写真

岡泉鷲神社(おかいずみわしじんじゃ)

鷲神社の創建は不詳だが、天和元年(1681)この地に勧請と伝えられ、祭神は天穂日命(あめほひのみこと)。社殿は本殿、拝殿、神楽殿。天保の頃(1830~44)に始まると伝えられる「大尽囃子(だいじんばやし)」と神楽(かぐら)が文化財として伝承されている。また、境内のケヤキが天然記念物に指定されている。

御成道(おなりみち)

県道さいたま・幸手線の道筋は、江戸時代には「日光御成道」 「日光御成街道」と呼ばれる重要な道筋であった。この御成道は、将軍が日光東照宮に参詣するための道であった。江戸の本郷追分で日光街道と分かれ、王子~ 岩淵(赤羽)~川口~鳩ヶ谷~大門~岩槻~幸手に至り、ここで再び日光街道に合流する6宿13里半(約53キロメートル)の道程である。
なお、下野田の1里塚は江戸日本橋から11里(約43キロメートル)の距離にある。

左右に街路樹が並んでいるまっすぐな道路の写真