白岡キーワード百科「か」

更新日:2023年01月31日

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笠地蔵(かさじぞう)

篠津の観音堂の入口に2体向き合って建立されている。地蔵尊の石仏に笠が付いているのは市内でここだけ。造立年代は江戸時代。市指定有形民俗文化財。

笠をかぶっている石仏の写真。石の土台の上に建てられている。

笠原沼用水(かさはらぬまようすい)

享保13年(1728)に井沢弥惣兵衛為永によって行われた笠原沼の開発に際し、開削された用水。久喜市で黒沼用水と分流した後、太田(現久喜市)、須賀、百間(以上宮代町)などへ灌漑している。当市では野牛・高岩の水田をうるおし、宮代町に至る。

河川(かせん)

市内の河川は県の1級河川に指定されている野通川・元荒川・星川・隼人堀川・庄兵衛堀川・姫宮落川・備前堀川の7河川と準用河川が2河川ある。用水は、見沼代用水やその支流の黒沼用水・笠原沼用水が市の中央部および東部を流れ、水田耕作の涵養元となっている。

白岡市内の主要河川図

鎌倉街道(かまくらかいどう)

鎌倉時代以降に鎌倉と関東諸国を、さらに信濃、奥州を結んだ道の呼称。また、江戸時代以前からの古道を示す場合もある。
県内には「上道」「中道」「下道」の3つの幹線路があったといわれている。市内でも鎌倉街道と呼ばれている道が2か所で伝承されている。1つは高岩の忠恩寺~正伝寺~下野田鷲神社~大徳寺~安楽寺~東伸団地を通って高台橋(黒沼用水架橋)付近で御成道に合流する道筋。もう1つは小久喜の寿楽院付近から西に向かい県道白岡停車場・南新宿線の蓮田方面に向かい、交差点の信号を蓮田市境を西地区に向かって通じる道筋で、この道は観応の変(1352・足利尊氏と足利直義両派間の全国的内乱)に当地の武士団鬼窪一族が進軍した道とも考えられる。

木が道の上にせり出している砂利道の写真

白岡地内

上野田(かみのだ)

日勝地区に属し、元禄改定の「国図郷帳」には、上・下野田の区別なく「野田」と記されている。野田村は江戸期の元禄~享保以前は埼玉郡百間領に属していた。
上野田と称されるようになったのは享保年間(1716~35)以降である。野田の名称の由来は、地形的なことから命名されたものと考えられる。
明治29年に実ケ谷村など8村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となる。

上野田鷲宮神社(かみのだわしみやじんじゃ)

『風土記稿』等の資料によると、祭神は天穂日命(あめほひのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、創建、由来ともに不詳。『風土記稿』には「高祖明神社」と記されており、旧鷲宮町(現久喜市)の鷲宮神社より分社されたとみられる。現在の本殿は昭和53年焼失したものを、翌年に再建されたもの。

栢間堀(かやまぼり)

享保13年(1728)に井沢弥惣兵衛為永によって栢間沼(現久喜市菖蒲町)の溜り水を除去するために開削された堀。現久喜市菖蒲町と白岡市の境で野通川・見沼代用水をくぐり、柴山に入る。さらに荒井新田・下大崎を東流し、篠津で星川をくぐり、寺塚で庄兵衛堀川と合流し、隼人堀川となり古利根川に落る。現在、河川行政上は隼人堀川と表示されている。

左右に草が茂る水路の写真

観福寺(かんぷくじ)

野牛にある新義真言宗智山派の寺院。『風土記稿』によれば、「戸ケ崎村(現久喜市菖蒲町) 吉祥院の末寺、大悲山与楽院と号す」とあり、第5世良栄が寛永18年(1641)に亡くなったという記録が残されているが、それ以前の由緒は不詳。本尊は 十一面観音で行基の作と伝えられる。当寺には指定文化財新井白石の肖像画も伝わっている。

木造で瓦屋根の平屋の建物の写真