今よみがえる中世寺院!(神山遺跡第6地点)
平成26年9月29日から11月13日までの約1か月間、個人農地改良工事に先だち、神山(かみやま)遺跡(第6地点)の発掘調査を行いました。調査では中世(800~400年前)を中心に大きな発見がありました。調査によって得ることができた成果の一部を報告します。

調査区北半部全景

発掘作業状況
神山遺跡は白岡地区に所在し、過去の調査から、古墳時代や中世を中心とした集落跡と考えられています。
隣接する第5地点(平成25年度の調査)では、中~近世の馬の骨が埋葬された跡が見つかるなど、興味深い成果もあがっています。
今回の調査では、中世の溝跡や井戸跡、そして柵列跡と思われる柱穴が数多く発見されました。これらは近接する興善寺のかつての寺域内に巡らされた区画溝や柵の跡であったと考えられます。

検出された溝跡

かわらけ(素焼の小皿)出土状況
興善寺は、平安時代初期に天台宗(てんだいしゅう)の寺として開かれたと伝えられ、その後、16世紀に現在の曹洞宗(そうとうしゅう)に改宗したと記録されています。また、開基は近江源氏(おうみげんじ)の末流である佐々木氏と伝えられています。
今回の調査では16世紀の遺物が中心に出土しました。神山遺跡に活発に溝や柵が築かれる時期は興善寺の改宗時期と一致していると言えます。
その背景には、15世紀まで興善寺を含む白岡地区を領有していた鬼窪氏に代わって、北から進出してきた佐々木氏が当地域において強い影響力をもつようになったためと考えられます。
白岡市域には、入耕地(いりごうち)遺跡(白岡地区)や南鬼窪氏館跡(小久喜地区)において城館跡が見つかっていますが、寺院自体にも城館の役割を担わせていた可能性があります。今回発見された溝や柵は、佐々木氏が興善寺を要塞化し、対外勢力への前線基地として利用していた痕跡を示すものではないかと考えられます。
中世の白岡周辺は古河公方(こがくぼう)や関東管領(かんとうかんれい)、後北条氏などの勢力と、それに与する地方豪族の台頭や衰退など、群雄割拠の様相を呈するとともに、短期間で支配者がめまぐるしく変化しています。
今後も、中世遺跡の調査成果を積み重ねることによって、当時の白岡市域の様相の解明が期待されます。
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更新日:2023年01月31日