「堂磯の谷」で板碑を発見!(入耕地遺跡第13地点)

更新日:2023年01月31日

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 平成30年10月3日から平成31年1月18日までの約3ヶ月半、宅地造成工事に先だち、入耕地(いりごうち)遺跡(第13地点)の発掘調査を行いました。今回の調査地点は遺跡北端の「堂磯(どいそ)の谷」と呼ばれる谷部にかかる地点にあたり、調査では縄文時代後・晩期(約3,000~2,500年前)と中世(800~400年)を中心に成果を得ることができました。

所々穴の開いた発掘調査区の地面を全体が写るように上から撮影した写真

調査区全景

調査区内の地面からたくさんの土器のかけらなどが掘りだされ、その確認などを行っている作業者の方々の写真

発掘調査の様子

 入耕地遺跡は白岡地区に所在し、過去の調査から縄文時代と中世を中心とした集落跡と考えられています。また、14世紀から16世紀までにかけての館跡(やかたあと)が発見されており、武蔵七党(むさししちとう)の一つである野与党(のよとう)の鬼窪氏(おにくぼし)の拠点と考えられています。
 今回の調査では、縄文時代の住居跡が5軒認められたほか、縄文土器などとともに、ヒスイ製のまが玉が1点出土しました。新潟県糸魚川(いといがわ)の産地から、誰の手を経てどのような経路で白岡の地へ運ばれたのか興味は尽きません。

円形に近い形で大小さまざまなサイズの穴が開いている住居跡部分の地面の写真

縄文時代の住居跡

調査区内から出土した白い小さなまが玉の写真

まが玉の出土状況

 中世の成果としては、館跡の区画溝(くかくみぞ)と考えられる溝跡(みぞあと)の上面より板碑(いたび)が1点出土しました。
 板碑は鎌倉時代中頃から戦国時代末にかけてつくられた石の塔婆(とうば)で、日本全国でその姿を見ること出来ますが、特に関東地方に集中しており、埼玉県内でも27,000基あまりが確認されています。
 今回の調査で発見された板碑には、正応(しょうおう)二年(1289年)の年号を読むことができました。年号が判明している板碑としては、白岡では二番目に古いものになります。

片側が斜めに鋭くとがった板碑が裏面を向いて地面に置かれている写真

板碑(裏面)の出土状況

片側が斜めに鋭くとがった板碑が模様が掘られている表面を向いて黄色のかごに入れられている写真

出土した板碑(表面)

 谷部を深く掘り下げていく過程で、「硬砂層(かたすなそう)」と呼称される硬く締まった砂層の部分的な堆積が確認できました。硬砂層は、関東ローム層よりも下位に認められ、約66,000年前に形成された古東京湾由来の堆積物で、大宮台地に広く分布することが知られています。
 調査では、この硬砂層に掘り込まれた土坑(どこう)が1基見つかりました。長径約1.2メートル、短径約50センチメートル、深さ約45センチメートルを測り、用途は不詳ですが、硬砂層を掘り込んだ側面はきれいに面取りをされていました。
 採掘した硬砂層を、カマドの袖石(そでいし)や古墳の石室(せきしつ)に利用する例は認められていますが、硬砂層自体に遺構(いこう)を掘り込む事例は、さいたま市の大木戸(おおきど)遺跡で報告されているほかは、近隣では知られていません。
 いつの時代のものなのか、出土した遺物(いぶつ)が少ないため特定は難しいですが、土坑が埋まった土の上面に中世の遺構が築かれているため、少なくとも中世以前の時期につくられたものと考えられます。
 今回の調査では、縄文時代から中世に至るまでの、人々の谷部での暮らしや地形の利用を考えるうえで、有益な情報を得ることができました。

水が溜まっている、長方形に掘られた深い穴の写真

土坑

T字状に掘られた深い穴の写真

硬砂層の広がりと土坑

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